道行くアルファードを見るたび、私は妬ましい思いを止めることができない。
「あの人はアルファードに乗れるのに、どうして私は20年落ちの中古車に乗っているのだろう」
「会社員が買えるのに、どうして経営者の私は買えないのだろう」
アルファードは高級車であるがゆえに「持ち主の生活には余裕がある」という図式が出てくるだろう。
しかし、持ち主がアルファードに乗るに至った経緯を考えると、まったく別の風景が浮かび上がる。
「アルファード=裕福」の誤解
アルファードに生活の裕福さを重ね合わせる。
私の持つこの視点は、どこから来るのであろうか。
「アルファードは高級車であり、今でも裕福である証拠だ」
ここから、私の誤解が始まる。
道行くアルファードの持ち主は、購入当時は裕福だったかもしれない。
だが、その家計環境が今に至るまで継続しているかは、不明だ。
さらに、購入時点でも裕福だとは限らない。
自己の財務状況を顧みることなく支払い不能なローンを組んだ結果、手に入れた瞬間から借金地獄に陥っているかもしれないのだ。
つまり、私は「アルファード」というたった一点だけを切り取って、持ち主の裕福な暮らしを連想してしまっている。
こういう文章を書く以上、頭では理解しているのに、だ。
人間の認知が持つ恐ろしいバグ、すなわち自分勝手に嫉妬する仕組みを、ここに垣間見ることができる。
アルファードを見て嫉妬する自分を、止めることはできない
「アルファード」という断片だけで、持ち主の資金的な状況は分からない。
アルファードに乗っているからといって、今でも裕福だという証拠にはならないのだ。
かといって、私がアルファードを見るたびに、嫉妬をすることを辞めることができない。
感情が頭の理解に追いついておらず、醜い嫉妬が心の中で暴れている。
それが「私」なのだ。

