今日はシンプルに「迷い」について私の思っていることを書いていきます。
「迷う」
この言葉に良い感情を持つ方は、少ないでしょう。
むしろ
「迷いは無駄」
「迷うくらいなら早く決めた方がいい」
と考える人の方が多いかもしれません。
ですが、私はそうは思いません。
「迷えること」そのものが、すでに恵まれている状態だと感じています。
職業と住まいの自由
今から100年前、日本という国で自分の職業を自由に決められる人はごく少数でした。
家業を継ぐと生まれた瞬間に決定している、跡取り息子。
「女が外で働くなんて」と、家庭に閉じ込められたまま一生を過ごす女性たち。
今、当たり前のように子どもに質問される
「大きくなったら、〇〇ちゃんは何になりたいの?」
このフレーズが生まれたのは、実はかなり最近の話なのです。
このように考えると、自分の職業に関して「迷う」ことができる現代は、自由が実現された社会です。
そして「迷える」という事実そのものが、その証明でもあります。
つい最近までは、農家に生まれたら、どんなに嫌でも自分も農業に従事するしかなかったのですから。
また、住まいについても同じことが言えます。
昔は生まれ育った土地を離れることに対して、厳しい制限がありました。
「生まれた場所で育ち、結婚して家庭を持ち、命を終えていく」
これが当たり前でした。
住まいや居住地に関する自由が国内で得られてからは、まだ100年も経っていません。
それまで、人々は何の疑いも持っていなかったのです。
「迷い」の弊害
ごく最近まで想像もできなかったほど大幅に、様々な自由が私たちには与えられました。
その一方で、「あれも、これも自由にどうぞ!」という社会へと急に変化した結果、「迷う」という弊害も生まれました。
先ほど例にした職業や居住地は、その最たる例です。
自由が増えるということは、同時に「選ばなければならない」という負担を引き受けることでもあります。
大学を卒業するにあたって、私が就活をした会社の業種はこんな感じでした。
- SIer(システムインテグレーター)
→10社ほどエントリー、就職先もここ - 商社をいくつか
→取り扱い品目は様々、一社は最終面談まで進んだが落ちた - 地方銀行
→経済学部だったので、一応 - 製造業
→まあまあ大手の地元企業を一社だけ。友達と一緒に受けて友達は入社した(苦笑) - 保険会社
→どこにも内定が出なかった場合の保険として。本音は「全力で避けたい」 - 地方公務員
→記念受験ですよ、ええ(笑)
何の脈絡もなく見えるのは、「選びきれなかった」から。
いくつもの選択肢があったために判断基準が定まらず、迷い続けるしかなかったのです。
自ら「ここに行きたい」と思っていたのはSIerだけでした。
最終的に潜り込めたので良かったのですが、散々、迷った記憶があります。
そして「もう、誰でも良いから決めてくれ!」と、半ば自棄になった時期もあったのです。
これぞまさしく、選択肢があるが故の「迷いの弊害」と言えるでしょう。
迷える自分を幸せと思い、活用しよう
私の就活は、迷いに始まり、迷いの中で終わりました。
希望業種としてSIerを選びましたが、「バリバリ文系で業界知識ゼロの私でも、大丈夫だろうか」と迷いました。
最終的に希望の職種に就けたものの、希望していた会社ではなかったので、ギリギリまで「私はこの会社を選んで、後悔しないだろうか」と最後まで生保と迷いました。
結局はSIerに就職したのですが、これってよく考えたら「贅沢な迷い」なのですよね。
昔の人は職業を「選ぶ」という道が、まったくなかったのですから。
せっかく選択肢が与えられているのなら、しっかり生かしましょう。
過去に生きた人々の、「選ぶことすらできなかった」やりきれない感情の山の上に、私たちは立っています。
あなたの手元にある「迷う権利」は、ただ持っているだけでは意味がありません。
迷い、考え、選び取ってこそ、初めて価値を持つのです。
ただし、すべての場面で迷い続ける必要はありません。
日常の暮らしについての「迷う」は、排除の一択です。

