社会には「当たり前」とされていることが、数多くあります。
- 子どもは毎日、学校に行って勉強する
- 大人になったら、就職しなければならない
- 結婚して子どもを持てば、一人前
- 周りに合わせて行動する
書き出したらキリがないくらい、たくさんの「当たり前」に囲まれた暮らし。
これを何の疑問もなくそのまま受け入れるのは、果たして「正しい」のでしょうか?
「正しさ」は、一種の暴力
私にとって、正しさとは「自分にとっての」という枕詞がくっついている存在です。
- 私はこう思うし、これが正しいと「信じている」
- あなたにとって、私の正しさは賛同できるかもしれないし、変かもしれない
- 「受け入れるかどうか?」は、人それぞれである
言葉でまとめると、こんな感じでしょうか。
ですが、時折、自分の正しさを他人に強制する人がいます。
「結婚、子育て」を例にすると
- 「いい年した大人なんだから」と、見合い話を持ってくるおばさん
- 子育て中の母親に向かって、「子どもを保育所に預けるなんて、かわいそう」と勝手に同情する人
- 「子どもを病院に連れて行くので」と会社を早退しようとすると、「そんなの、嫁さんにさせとけ!」と怒り出す上司
どれもこれも自分の正しさを振りかざし、受け取り手の意見は完全に無視されています。
意見が違う時の、よくある反応パターン
ここで「いや、それは違います」と意見するのは簡単です。
喧嘩になるかもしれませんが、少なくとも主張するだけマシだと私には思えます。
一方で「どうせ言っても聞かないから」と、ただ黙って耐える人もいるでしょう。
ですが、耐えているばかりでは何の解決にもならないばかりか、メンタルを病んでもおかしくありません。
最も良くないのが、「表向きはハイハイと返事して、影で悪口を言う」
何が良くないのかというと、何もかも!です。
面従腹背も良くなければ、悪口を言うこともNG!
心の中にどす黒い澱が溜まった先にあるものは・・・
結局はどれもおすすめではない、というのが私の考えです。
正義のぶつかり合いを避けて、受け流す
では、どうするか?
ここで私は「受け流す」を提案します。
- 自分の「正義」を言語化する
- 相手の「正義」を認識する
- 互いの「違い」を整理する
- 受け入れられない部分からは「そういうものだ」と、距離を置く
「4」まで完了した状態で相手に接すると、驚くほどに心が波立たないことに気づくでしょう。
さらに意外なことかもしれませんが、相手の態度も少しずつ軟化してきます。
相手にとってどの強度で「これが正義だ」と思っているのかによりますが、少なくとも自分の命よりも軽い正義であれば時間がかかっても態度は変わってくるはずです。
自分の立ち位置を変えることで、相手の正義を「避ける」
これが「正義を受け流す」です。
相手を変えるな、自分を変えよ!
「相手を変えることはできない。だが、自分を変えることはできる」
使い古された言葉ですが、これは真理をついています。
「真」だからこそ、長く残っているのでしょう。
実は昨日までの私は、仕事面で
- 私の言うことを聞かないあの人に問題がある
- 「自分が間違ってました」と相手が言わないのは、ありえない
と、思い込んでいました。
ですが、「受け流す」を思い出したので、今は気持ちがスッと楽になっています。
相手の正義は変えられない。
ですが、自分の正義は変えられます。
またこのブログに、記事を書き進めることができそうです。
